6.「霊的エネルギー循環理論」から見た心の成長と、心の病気(精神障害)

生まれつきの基本的な心の形成

一般的に「心」と言われているものは、先に述べた「顕在意識」のことです。この顕在意識は、脳を通じてもたらされる「霊的意識の一部」と、脳から発生する「本能的意識」の総体です。顕在意識に占める霊的意識と本能的意識の比率は、1人1人異なっています。ある人は霊的意識の占める部分が大きく、別の人は本能的意識の占める部分が多くなっています。霊的意識と本能的意識の比率、すなわち「顕在意識の大枠」は、生まれつきある程度まで決定しています。

その「霊的意識」ですが、それは状況によって大きくふくらんだり、反対にしぼんだりというように流動的な性格を持っています。それに対し「本能的意識」は、肉体的な要因によって規定されているため、霊的意識ほど流動性はありません。

この生まれつきの「心の大枠」は、後天的要因、すなわち地上人生の体験や教育、また本人の努力によって少しずつ変化していくことになります。

生まれつきの基本的な心の形成

心の成長とは?

「心(顕在意識)」は、生まれつきほぼ大枠が決定していますが、それは地上人生を通じてどのように変化していくのでしょうか。よく言われる心の成長とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。結論を言えば「心の成長」とは――顕在意識(心)の中の「霊的意識の拡大」のことなのです。それは顕在意識につながる「霊の心」そのものを、より神に近づけることになります。こうした形での霊的成長が、心の成長ということなのです。

生まれつきの「心(顕在意識)」の大枠は決定していると言っても、それは物質のように固定したものではなく、液体や気体のように柔軟性を持っています。特にその中の「霊的意識」は、絶えず自在にふくらんだりしぼんだりします。その変化にともなって、心全体の中に占める「本能的意識」との比率が変化することになります。本能的意識は“脳”という物質的存在に規定されているため、霊的意識のような柔軟性・流動性はありません。

もし人間が「霊的意識」を意図的に維持しようとしないならば、たちまち霊的意識は心(顕在意識)から締め出されたり、心の片隅に追いやられてしまいます。そして「本能的意識」が、心(顕在意識)全体を支配するようになってしまいます。必要な霊的エネルギーが上位の「霊」からもたらされないと、心の中に占める霊的意識は小さくしぼんでしまうのです。「心(顕在意識)」は、常にこうした流動的な状態に置かれています。

生まれつき決まっている「心の大枠」とは言ってみれば、「霊的意識」が心全体をどの程度まで占めることができるかという可能性のことなのです。しかし、それはどこまでも生まれつき与えられている可能性であって、常にその通りになるというわけではありません。どれほど高い可能性を持っていても、意図的な努力をしなければ十分に霊的意識を発揮することはできません。

「心(顕在意識)」の中の霊的意識を広げ、さらに引き上げていくことが「心の成長」ということなのです。霊的意識は“利他性”を指向し、本能的意識は“利己性(自己性)”を指向します。そのため心の中では、絶えず利他性と利己性の葛藤が生じることになります。霊的意識の拡大(霊的成長)を別の言葉で表現するならば――「利他的な意識の拡大」ということになります。

この「利他性の拡大」は、霊的意識に支配性・優位性をもたせるための努力(霊主肉従の努力)と、利他性そのものを引き出すような正しい育児・教育や社会環境・自己努力など、さまざまな体験を通じて達成されていくことになります。こうした後天的な努力によって生まれつきの心の大枠は変化し、成長していくことになります。

「心の病気」発生の前段階とストレスの形成

心が本能的意識に支配され、霊的意識の働きが阻害されるようになる(肉主霊従の状態になる)と、「霊の心」からのエネルギーの流入は極端に減少します。そして「心(顕在意識)全体」がエネルギーの枯渇状態に陥ることになります。現代人の多くがこのような状況にあります。

心の「肉主霊従」は、すでに“心を病んでいる”ということです。この段階ではまだ決定的な破滅・破綻レベルには至っていませんが、こうした状況が長引き、エネルギーの欠乏状態が深刻化すると、ちょっとした“ストレス”が引き金となって一気に破綻状態に至ります。

「肉主霊従」という心の状態は、「慢性的な軽度の精神障害」なのです。本能的意識が中心となっている心では、自己中心性・自己愛が支配的になります。霊的成長とは利他愛の拡大のことですが、こうした自己中心的な状態では、いつまで経っても心は成長することができません。未熟な段階にとどまってしまいます。未熟な心・霊的エネルギーが枯渇した心は、外部からの刺激(ストレッサー)によって容易に心の中に「精神的ストレス」を生み出すことになります。

精神的ストレスとは、絶望・恐れ・怒り・悲しみ・孤独といったマイナスの感情であり、心の痛みです。成熟した心・利他性が支配的な心では、外部の刺激に対して広い視野から対処し、それをストレスとして溜め込むようなことはありません。

同じ刺激やトラブル・困難に遭遇しても、それをストレスにする人とそうでない人がいるのは、こうした理由によります。

ストレスによる一撃

抱え込んだストレスの一撃が、心全体のバランスを大きく崩し、決定的に破綻させることになります。スピリチュアル・ヒーリングでは、精神的ストレス(恐れ・不安・悲しみ・怒り・絶望など)を心と肉体の病気の重大な原因と見なしています。ストレスは、もともとエネルギーの乏しくなっている心に強烈な打撃を与え、これを一気に破綻させてしまいます。

またストレスは、顕在意識につながる「霊の心」をも乱すことによって上位の「霊」にまで影響を及ぼし、「魂の窓」を閉ざして霊的エネルギーの摂取を制限してしまいます。同時に霊的エネルギーの中継ポンプとしての「霊の心」の役割を果たせないようにして、霊体・肉体のエネルギーレベルを低下させます。こうしてストレスは、身体全体の異常を引き起こします。まさにストレスは“万病の原因”なのです。

ただしここで忘れてならないことは、ストレスの大半は、本人自身の心の未熟さと性格がつくり出しているという点です。真面目すぎる(生真面目)・気が弱い・人目を気にしすぎる・繊細すぎるといった性格の人は、そうでない人と比べ“ストレス(マイナスの感情)”をさらに増幅させることになります。

心の病気(精神障害)

心の病気(精神障害)とは、「霊的エネルギー循環理論」からするならば、心のエネルギーレベルが極端に低下して大きくバランスを崩し、心そのものが最低限の機能を維持できなくなった状態と言えます。こうした心の破綻状態は、ダムが決壊して溜めていた水が一気に流出し、その後も水を溜められなくなった状況に譬えることができます。患者は「霊的エネルギー循環システム」の破綻によって急激にエネルギーを失い、すぐに回復できずに深刻なエネルギー枯渇状態が続くことになります。

このときの異常は、脳にもそのまま影響し“脳内物質”の変化となって現れます。この場合は脳内物質の異常が先にあって精神障害が引き起こされるのではなく、“心の破綻”という異常が脳に反映して物質次元の異常が引き起こされると見るべきです。

さて、心の破綻は、いつまでもそのままの状態に置かれるわけではありません。肉体の損傷に対して自然治癒力が働いて修復に向かうように、心の損傷に対しても「心の自然治癒力」が働き、時間とともに徐々に回復に向かうようになります。壊れたダムは修復され、少しずつエネルギーが蓄えられていくようになります。

心の病気(精神障害)という深刻なエネルギー枯渇状態は、本人には無気力感・孤独感・虚しさ・絶望感などの苦しみの感情を引き起こすことになります。また極端なマイナス指向・自己中心指向・逃避指向を生み出します。エネルギーの枯渇と心全体の破綻は、1人1人の内容・条件によって、さまざまな症状となって現れます(注3)

“トラウマ論”の暴走

最近、精神医学や心理学の中で、心の病気は“トラウマ(心的外傷体験)”によって引き起こされるという考え方が流行しています。青少年犯罪が起こると、決まってその事件の背後に過去のトラウマがあり、それが原因となっているかのような説明がなされます。心の病気(精神障害)の原因としての“トラウマ論”は、今や世の中一般にまで行きわたっています。トラウマとしてよく取り上げられるのが、家庭環境や幼児期の虐待・母親の溺愛などです。

トラウマ論は、1つの過去の出来事が原因となって「心の障害」が引き起こされるという病因論です。しかし心の病気は、たった1つの過去の体験・要因によって起こされるものではありません。多くの要因のトータル的な結果として発症するものなのです。その中で最も大きな要因は、その人間自身の「未熟性・未成熟性」なのです。

大半の人間は、幼少時に外部から与えられたショックを、いつまでもストレスとして溜め込むようなことはありません。同じ辛い体験をしながら、それをトラウマとしていない人間の方が多いことを考えれば、トラウマ説の矛盾は明らかです。トラウマ論は、まるで感染症の“病原説”のようです。人間サイドに抵抗力があれば、たとえ細菌がうようよしている環境の中にいても病気にはなりません。病気の主な原因は、免疫機能を低下させている人間の側にあるのです。

もちろんトラウマのすべてを否定するわけではありませんが、トラウマ理論が当てはまるのはごく一部であるということです。それをまるで何もかも“トラウマ”こそが原因であるかのように決めつけることは間違っています。トラウマ論は、病因論上の仮説の1つにすぎません。過去の出来事が、本当にトラウマになっているかどうかも定かではありません。トラウマについての言及は、大半が推測の域を出ないものなのです。

確たる根拠もないのに、それをさも最大の原因であるかのごとく取り上げ決めつけることによって、無用な苦しみを周りの人々に与えることになります。こうした推測のみの判断で、社会や家族・親に責任を負わせることは、大きな間違いを犯すことになります。

問題の多いトラウマ論の中で、最も悪質というべきものが“前世療法”と言われているものです。催眠術で過去の記憶をよみがえらせることによって、前世でつくり上げたトラウマこれを前世の“カルマ”と言っています)が明らかになると言うのです。これは一般のトラウマ論の推測性をさらに加速させたもので、ほとんど空想と言ってよいものです。前世療法の問題点は、“催眠術”を過信するところにあります。催眠術によって前世のカルマが明らかにされることはありません。