4.「心とは何か?」

心をめぐる論争(脳の産物か、霊魂か)

現在の心身医学には、未解決の本質的な問題点が残されています。それは心身医学には、いまだに明確な“心の定義”が確立されていないということです。現在の心身医学の最大の問題は――「心とはそもそも何なのかが解明されていない」ということなのです。心と肉体の間に相互関係があることは、はっきりしつつありますが、肝心なその「心」とは一体何であるのかが、不明なままにされているのです。それについての探求が、心身医学のこれからの重要な課題となるでしょう。

心身関係が明らかになるにつれ、古い科学モデルは大きく修正を迫られることになりましたが、実は「心とは何か?」を追求することは、それ以上に従来の科学医学に根本的な打撃を与えることになります。なぜなら“唯物論”そのものを完全に否定することになる可能性があるからです。そして同時に、医学が宗教や哲学との関わりを持たざるをえない状況が否応なく発生するようになるからです。

近年、「心とは何か?」をめぐって激しい意見の対立が見られました。唯物論の立場からの心の解釈と、それに反対する解釈がぶつかってきたのです。心とは何かを問うことは、心(意識)と脳の関係を問うことに通じます。ここでは心の存在や定義をめぐるこれまでの見解の対立点を概観し、心身問題の本質を明らかにします。

近代科学の“心の定義”

心は脳の産物にすぎない

唯物主義に立脚する近代科学は、心を「脳という物質の産物」と定義します。心とは、脳内にある百兆もの神経の電気回路から生じる随伴現象であると考えます。これは脳が先で心は後、心は副次的な存在であり、脳を離れては存在しえないということを意味します。

近代科学ではこうした自分たちの見解の正当性を主張するために、脳に損傷を受けると精神に異常をきたしたり記憶が失われるといった症例を挙げます。また薬物や物理的刺激によって精神状態が変化したりさまざまな精神症状が生じること、さらには脳の一部を刺激することによって幻想や幻聴がつくり出されるといった事実を取り上げます(注1)

意識(心)が脳に依存していることは事実ですが、それをもって意識が脳の活動の随伴現象であるという理由にはなりません。こうした事例は、心が脳の産物であるという証拠にはなりません。なぜなら脳から独立した「霊魂」のような意識があり、そこから発せられた情報が脳という“受信器”によって受信され、脳から再発信されるという可能性も考えられるからです。こうした想定が正しいならば、脳の障害がさまざまな精神症状を引き起こしたとしても何の矛盾もありません。現にスピリチュアリズムや一部の哲学者・脳科学者たちは、そのように考えているのです。

心は脳の機能・産物にすぎないとする考え方は、現在では臓器移植の際の脳死判定をめぐって複雑な問題を引き起こしています。唯物科学は究極的には、人間性・自我も脳によってつくり出されるという考えにまで至ります。脳によって理性ある人格が形成され、脳が働いている間だけが人間らしいとの主張につながっていきます。それは“脳死”という脳の機能が止まった時をもって、人格性や尊厳性そのものが消滅することを意味します。スピリチュアリズムのように死後の生命の存続を認めない以上、脳の死(機能停止)は、人間性と人格の終焉しゅうえんということになります。

脳から独立した心の存在

唯物科学は、人間の意識を“脳”という物質に還元して考えます。たしかに人間の意識は脳の電気的な性質と機能にともなっていますが、意識(心)はこれらによってすべて限定されるものではありません。

唯物科学の心の理解とは、全く逆の考え方があります。それは「脳という物質から独立した意識(心)が存在する」というものです。「脳から離れて存在する意識」ということになると、従来言われてきた「霊魂」が真っ先に思い出されます。死後の自我の存続を認める宗教では、こうした考え方をするのが普通ですし、プラトンなどの哲学もそうした見解に立っています。

近年に至って唯物科学が霊魂の存在を否定するようになり、脳から独立した心を認める宗教と科学が鋭く対立してきました。そしてその議論は決着することなく現代まで続いています。

現代の精神医学の2つの流れ

心をめぐって対立する2つの考え方(人間観)は、現在の精神医学にもそのまま反映しています。すなわち現在の精神医学は、“唯物的一元論”に立って心は脳の産物であり、脳を理解すれば心の病気は治せるという方向性をとるものと、“心身二元論”の見解に立って心と脳(物質)を同質のものとは見なさず、心の病気は心として治療すべきであるとの方向性をとるものとに分かれます。前者は「脳精神医学」、後者は「心理学的精神医学」と呼ばれています。こうした対立する精神医学の流れは、19世紀後半、ほぼ同時期に発生しています。

「脳精神医学」では、科学性・学問性を重視し、徹底して唯物医学(科学医学)の立場に立とうとします。そして精神障害(心の病気)を、脳の異常として考えます。近年の脳科学の進歩が、その立場を強めることになっています。日本の大学(医学部)では、脳精神医学が主流となっています。現在の脳精神医学の治療法は、薬物療法が中心です。あまりにも薬物療法に頼り過ぎ、心理療法による心の治療を無視したり軽視する傾向があります。その結果、「精神医療」イコール「薬物療法」というイメージを生むことになっています。

一方、「心理学的精神医学」は、精神医学者ジクムント・フロイトに始まると言われます。心理学的精神医学では、臨床と治療を優先します。そうした姿勢がこれまで、精神分析や暗示療法に代表される多くの精神療法(心理療法)を生み出してきました。脳精神医学が理論重視に走り、原因究明にエネルギーを傾けるのに対し、心理学的精神医学は治療を優先してきたのです。

しかし脳精神医学からすれば、心理学的精神医学は科学的実証性(エビデンス)がなく厳密な科学とは言えない、単なる仮説にすぎないということになります。さらに心理学的精神医学での心理療法には、あまりにも時間がかかり過ぎるという弱点があります。先に述べた「心身医学」は、心理学的精神医学の延長上にあります。

現在の精神医学における実際の治療は、“薬物療法”がメインとなっています。医者によっては、それに“心理療法”を加えるという形で進められています。しかし時間がかかり過ぎることなどが理由となって、現実には心理療法はあまり実施されていません。

脳科学者が提示した、脳から独立した意識の存在

20世紀の脳科学における1つの大きな出来事は、脳から独立した心の存在を認めるような見解が、内部から提示されるようになったことです。ワイルダー・ペンフィールドやジョン・C・エックルスがそうした代表的な科学者です。両者とも現代脳科学における権威でしたが、その現代科学の権威が「独立した意識の存在を認める」という驚くような行為に出たのです。

ペンフィールドは治療と実験の一線で活躍していたときには、心は脳の仕組みですべて説明できると確信していました。ところが晩年の著書『脳と心の正体』の中では、「心の働きは脳の仕組みで説明できるものではない」という全く反対の結論を述べています。心は身体を離れても存続し得るのではないかという考えに至り、霊魂の死後存続を認めるような見解に近づいていきました。ペンフィールドという脳科学の権威の晩年の思想的転向は、他の脳科学者たちに大きな衝撃を与えました。同僚たちの中には、ペンフィールドは老衰したためか、あるいは死の恐怖から頭が異常になったのだと非難する者もいました。

エックルスも脳から独立した心・意識の存在を認めたばかりでなく、その心と脳との間に、ある種の相互作用があることを認めました。ペンフィールドとエックルスが、科学者でありながら脳から独立した心(意識)の存在を認めたことは重大です。しかし彼らの見解は、いまだに現代脳科学において受け入れられることはありません。現代科学の根本原則に抵触することになるからです。

科学者の中からこうした画期的な動きが生じたのと同じく、哲学者の中からも、脳から独立した意識の存在を主張するアンリ・ベルグソンのような者が現れています。ベルグソンは、記憶の問題を手がかりに「純粋記憶(souvenirpure)」という概念を主張しました(注2)。これは心が脳から独立した実体であることを意味しています。ベルグソンは、脳は記憶を保存する器官ではなく、単に選別する器官にすぎないとし、従来の宗教が主張してきた霊魂の実在にきわめて近い見解を示しています。

新しい二元論「相関的二元論」の登場

近代科学は、デカルトの「物心二元論」から出発しました。デカルトの「物と心の二分法」を採用して心を切り離し、物の世界だけを対象とするようになりました。やがてこの方向性がエスカレートし、「心は物質(脳)の産物に他ならない」という“唯物論”に至ることになりました。

本来は、物と心を分けて、物の世界だけを対象にしようとする方法論にすぎなかったものが、“物から離れた心など存在しない”という思想にすり替わってしまったのです。デカルトの「物心二元論」は、いつの間にか「物質一元論(唯物論)」になってしまったのです。

「デカルトの二元論」と「近代科学の物質一元論」

20世紀に至り、ペンフィールドやエックルスのように、「物質から独立した意識(心)の存在」の可能性を主張する科学者が現れ、再び「物心二元論」が科学の中に登場することになりました。しかもそこでは、意識(心)と物質(脳)の間に相互関連性があることが認められています。デカルトの二元論(二分的物心二元論)では、心と物体(脳)の間には関連性はないとされましたが、ペンフィールドたちは、心と脳は影響を及ぼし合っているとし、「新しい二元論(相関的二元論)」を提示することになりました。

一方「心身医学」は、心が脳に及ぼす影響と同時に、肉体が心に及ぼす逆方向の影響力も証明して、意識(心)と物質(身体)の相互関連性を明らかにしています。この意味で心身医学は、「新しい二元論(相関的二元論)」に近い立場に立っています。

「相関的物心二元論」

心身医学に突きつけられる選択

心身医学は、臨床的にも実験的にも「心」が身体に対する影響力を持つことを証明したものの、「心」それ自体が何であるのかが分かっていません。これが現在の心身医学の最大の課題です。もし心身医学が「心は脳から独立したもの」というペンフィールドやエックルスのような見解に立つならば、それは従来の科学に対して明確な一線を引くことになります。科学医学の立場を自ら飛び出すことになります。そして宗教的立場に近づくことになります。医学の中に純粋な宗教的考え方である「霊魂説」が導入されるようなことになるならば、これまで全くなかったような「医学と宗教の連携」の可能性も出てきます。

現在の心身医学は、意識(心)と身体の関係の問題だけに終始し、宗教との接近を極力避けようとしているかに見えます。しかし結論を言うならば「心身医学」は、ペンフィールド的な見解に立って自らを理論化しないかぎり、単なる臨床的な手段として何の魅力もない唯物主義医学の領域に自らを押しとどめることになってしまいます。それではホリスティック医学界をリードすることなど到底できませんし、ホリスティック医学の盟主としての地位を自ら放棄することになります。

「心」をどのように考え、定義するのかという最も困難な選択が、今、心身医学に突きつけられています。“唯物主義医学”との決別を果たし、「真のホリスティック医学」のリード役となっていくのかどうかを自ら選択しなければなりません。それはホリスティック医学全体にとっても、将来の方向性に関わる重大な局面を迎えているということなのです。

心身医学の関係者に望まれる真の勇気

これまで心や霊魂といった問題は、純粋に信仰世界のものであり、科学や医学とは無関係とされてきました。いわゆる「宗教と科学の住み分けの原則」です。

科学は、どこまでも再現性のともなう物的証拠をもって物質世界の法則を認定する1つの方法論にすぎないのであって、心や霊魂など物質でないものに対して、あれこれ口出しする資格はありません。科学者や医者が「自分は霊魂の存在を信じられない」と言うことは自由ですが、「霊魂などは存在しない」と断言することは許されません。科学者は、科学の対象外である世界について口をはさんではならないのです。

ところがいつの間にか、科学で証明されたことだけが事実であって、そうでないもの宗教などで信仰の対象となってきたもの)は事実ではないと考えるようになってしまいました。これは明らかに「宗教と科学の住み分けの原則」からの逸脱です。もし、そうしたことを口にする科学者がいるなら、それは傲慢さと無知を示していることに他なりません。

20世紀に至ってニュートン理論に立脚する従来の科学モデルが崩され、物質は人間の意識と切り離すことができない関係にあることが立証されました。これは心身医学にとっては好条件で、心や霊魂について論じる環境が整いつつあるということなのです。心身医学は、唯物的で時代遅れにある現代医学に対して堂々と異議を唱えるべきなのです。「心身医学」は、意識と身体の関係、心が身体に及ぼす影響を明らかにした以上、“唯物医学”の間違いを正さなければなりません。そして医学がこれまで宗教的として避けてきた心や霊魂の問題を、医学の中にもう一度復活させるべきなのです。