4.「スピリット・ヒーラー理論」
「スピリット・ヒーリング」を成立させるための絶対条件とは?
一般のスピリチュアル・ヒーリングの限界と、良心的ヒーラーの悩み
サイキック・ヒーリングやマグネティック・ヒーリングは、スピリット・ヒーリングと違ってヒーラー自身の能力に頼る治療です。こうしたヒーリングでも、時には現代医学によって見放された患者の病気が癒されるようなことがあります。そしてそれが評判となってヒーラーに、多くの物質的利益と名声がもたらされるようになります。ヒーラーの中には初めから、そうした世俗の富と名声を追求するためにスピリチュアル・ヒーリングを利用しようとする者もいます。
しかしその一方で、“人々の病気の苦しみを軽減してあげたい”という純粋な思いから、ヒーリングに携わるヒーラーもいます。そうした良心的なヒーラーであればあるほど、自分のヒーリングに満足できず悩みを抱えることになります――「自分は果たして最善の治療をしているのだろうか?」「自分のヒーリングは常に中途半端な段階にとどまっているが、自分の努力が足りないのだろうか?」「これまで一時的に奇跡的な治癒が生じたこともあったが、時間とともに症状が再発している。ぶり返しのない治療はできないものか?」
こうした謙虚で良心的なヒーラーが「スピリット・ヒーリング」の存在を知ると、“自分もぜひそうしたヒーラーになりたい”と切望するようになります。
良心的ヒーラーの目標
「スピリット・ヒーリング」
真のスピリチュアル・ヒーリングは「スピリット・ヒーリング」であることが、これまでの説明で明らかになりました。スピリチュアル・ヒーリングは「霊医」が治療の主役である「スピリット・ヒーリング」となったとき、最高の力を発揮するようになります。(*とは言っても、患者の霊的エネルギーの受容性が、現実の治療結果を左右することに変わりはありませんが……)
より高い治療効果を求めるヒーラーや治療家は、必然的に「スピリット・ヒーリング」を目指すようになります。ヒーラーがサイキックレベルの治療で満足できず、スピリット・ヒーリングを目指すということは、ヒーラーにとって大きな霊的飛躍の時を迎えていることを意味しています。
「スピリット・ヒーラー理論」
自分の力だけに頼るサイキック・ヒーリングやマグネティック・ヒーリングには、人格性は不要です。生まれつきの霊能力・超能力があれば、これらの治療は可能となります。したがってそうしたヒーラーには、霊的成長のための内省的な努力や霊主肉従の努力は必要とされません。彼らに要求されるのは“霊能力の強化”のみであって、内面(心)を深め、人格を磨くことではありません。霊性が低く人格が劣っていても、サイキック・ヒーリングやマグネティック・ヒーリングはできるのです。
しかし、「スピリット・ヒーリング」は事情が全く異なります。ヒーラーに高い霊性と人格性がないかぎり成立しないのです。この点において「スピリット・ヒーリング」は、他のスピリチュアル・ヒーリングと一線を画しています。「スピリット・ヒーラー(スピリット・ヒーリングを行えるヒーラー)」になるには、高い霊性と人格性が要求されるのです。これを「スピリット・ヒーラー理論」と呼びます。
「スピリット・ヒーラー」に要求される人格性とは?
本物のスピリチュアル・ヒーラーとは、霊医の道具となって自らを媒介体として捧げる人間(スピリット・ヒーラー)のことです。ハリー・エドワーズのように、スピリチュアリズムの歴史に名を
優れたスピリット・ヒーラーに見られる共通性は――「道具としての謙虚さ」です。そして「報酬を求めない献身性・利他性」です。「無償の愛」という崇高な精神です。彼らは、自分が純粋な奉仕精神・無償の精神を持ったときに、同じ無償の愛から地上人を癒そうとする霊医の働きかけの対象に選ばれることを知っています。「人格性・真の利他性」が治療結果を左右することを知っているのです。彼らには、純粋で内面的な信仰努力と治療行為が同一のものとして位置づけされています。自らの霊性を高める日常の内省的努力・霊主肉従の努力が、そのままヒーラーとしての能力を高める訓練となっていることを、よく理解しているのです。
高い報酬を患者に要求するヒーラーや、単に職業としてヒーリングを行うヒーラーは、「スピリット・ヒーラー」にはなれません。口先で立派なことを言ったり、素晴らしい言葉を本に書き連ねることは、真のスピリット・ヒーラーの資格とはなり得ません。霊界のスピリットは、地上人の心の内や動機を正確に見抜いています。彼らの目をごまかすことはできません。何を言っているのかではなく「何を行っているのか」が、スピリット・ヒーラーとしての真価を決定します。日常生活での無償の奉仕や自己犠牲を