6.中国伝統医学の身体観

アーユルヴェーダと並ぶ世界伝統医学の1つが中国伝統医学であることは、今さら言うまでもありません。中国伝統医学はホリスティック医学の代表格であり、当然のこととして、今後のホリスティック医学の総合理論体系の中に組み込まれなければなりません。そのためにはまず、その身体観を検討することが不可欠となります。

ここではスピリチュアル・ヒーリングの身体観と、中国伝統医学の身体観がどのような関係になっているのかを見ていきます。両者の身体観を比較して共通点と相違点を明らかにし、中国伝統医学が、スピリチュアル・ヒーリングで言う「霊体」の存在を認めているのかどうかを見極めることにします。

「霊体」の概念のない中国伝統医学

これまで、スピリチュアル・ヒーリングやインド伝統医学(ヨーガ)、神智学の身体観を見てきました。それらに共通する身体観のポイントは、「霊体」の存在でした。霊体の数については、それぞれの立場で異なる見解を持っていますが、肉体以外に「不可視の身体がある」という点においては、いずれの立場も認識は一致しています。

それに対して中国伝統医学の身体観は、きわめて異色です。身体を論じるについての視点が、他のものと全く異なっているのです。これまでのように「霊体」を共通のキーワードとして考えてきた立場からすると、その発想のあまりの違いに戸惑いを覚え、つかみどころのなさを感じるようになります。中国伝統医学は「気の医学」と言われますが、そこでは霊体のような形態(外形)をともなった身体は一切問題とされていません。その代わりに「身体の機能」という別の視点が重視されているのです。

気一元論と「気の身体観」

中国では伝統的に、あらゆる存在物や現象を「気」という1つの概念によって解釈しようとします。いわゆる「気一元論」ですが、医学も、世界の成り立ちも、自然現象も、人間を含むありとあらゆる自然界の存在物も、すべてを「気」という共通語によって解釈を図ろうとします。その結果、医学は「気の医学」、哲学は「気の哲学」、思想は「気の思想」・「気の世界観」ができ上がることになります。そして気の概念による身体の理解は、「気の身体観」を形成することになります。

身体を外部から観察しようとするならば、その形態・外形に関心を向けるのが一般的な在り方ですが、「気の医学」は、人体をまず機能の観点から見ようとします。身体という形態よりも、気の流れによって引き起こされる機能にすべての関心が向けられます。そして身体は、どこまでも気の流れの容器、あるいは気の流れる入れ物として考えられるのです。気の医学にとっては、身体が肉体のように目に見えるものであろうが、霊体のように目に見えないものであろうが、どちらでもいいということなのです。さらに言うならば、気の働き(機能)さえ明確であるなら、身体が1つであるのか2つであるのかも問わないということなのです。

「気の身体」という架空の身体

中国でも昔から人体解剖は行われていました。しかし目の前の臓器の詰まった人体を見ても、臓器の形態的な違いには関心が向きませんでした。視点はどこまでも、気の働きによる機能という全く別の方向に向けられていました。「人体を視覚的にとらえようとせず、機能的観点から見ようとする」――これが「気の医学」の基本的な姿勢です。彼らの関心は、物としての臓器にではなく、気の働きによる機能にもっぱら向けられていたのです。

このように中国伝統医学では、気の流れとそれによって示される働き・機能が重視され、そこから架空の「気の身体」がつくり出されることになります。気の通路である経絡のネットワーク身体、潜在的機能的身体という「架空の身体」が想定されることになります。形態を重視する立場からすれば、形態があってこその身体なのですが、中国伝統医学にあってはどこまでも機能だけが問題とされたのです。現実的な治療実績だけを重要視する中国人の伝統的な実用主義が、こうした特殊な視点を編み出すことになったのではないかと考えられます。

「気の身体」という架空の身体

スピリチュアル・ヒーリング

気の医学

中国の霊魂観・死生観

スピリチュアル・ヒーリングで言う「霊体」と、中国伝統医学で言う「気の身体」には共通の視点・接点がないため、それらを直接比較することはできません。両者は全く別次元の存在であって関わりを持つことができません。しかし、それでも何とか「霊体」と「気の身体」の接点を見い出そうとするなら、直接、中国人の“霊魂観”に当たってみることが必要となります。中国人の伝統的な霊魂観を探る中で、「霊体」と「気の身体」の接点についての何らかの手がかりを見い出すことができるかもしれません。

では、中国の伝統的な霊魂観とはどのようなものなのでしょうか。そもそも古来より中国人は、霊魂といったものを認めていたのでしょうか。もし霊魂の存在を認めていたとするなら、それはどのようなものとして考えられていたのでしょうか。

結論を言えば、中国では上古から霊魂の存在は信じられてきたということです。とは言ってもそこで考えられてきた霊魂は、我々が抱く霊魂のイメージから大きく隔たっています。中国における霊魂は、「魂魄(こんぱく)」と呼ばれてきました。死とは――魂気こんきは天に帰し、形魄けいはくは地に帰す」(『礼記』)によって示されているように、「魂」と「魄」が永遠に分離することであると考えられていました。

その魂魄ですが、古典によれば「魂」は「陽の気」であり、死ねば天に上っていく気であり、気体に似たような「タマシイ」のこととされています。一方、「魄」とは「陰の気」であり、死にともない地に戻るとされています。それは時に、やがて白骨化する肉体を意味することもあります。「魄(陰の気)」は、肉体を形成する力と見なされることもあります。大切なことは、「魂魄」は死によって分離するということ、2種類の異なる気が離散することが死であるという考え方です。ただし「魂魄」が分離するのは死のときばかりでなく、病気で肉体が弱ったり睡眠中でも生じるとしました。分離した「魂」を地上に呼び戻すために、中国では「招魂しょうこんの儀式」が伝統的に行われてきました。

以上は、古代の儒家じゅかによって説かれた中国の伝統的霊魂観の概要です。「魂」を霊体に、「魄」を肉体に置き換えると、スピリチュアリズムの霊魂観ときわめて似ています。魂魄の分離とは、霊的能力のあった古代儒家が観察した霊体と肉体の分離(幽体離脱現象)と考えることができます。古代儒家の描いた霊魂分離の様子が、スピリチュアリズムや現在の臨死研究と内容的に一致していることは驚きです。古代儒家は、幽体離脱の状況を正確に認識していたのかもしれません。

とは言ってもここでもやはり問題となるのが、すべてを気の概念によって説明している点です。中国の伝統的な気一元論が、霊魂観をその内枠にしっかり収めてしまっていることです。結局「気の霊魂観」では、霊魂の形態よりも機能だけに関心が向けられ、霊魂を気の働き・機能の観点からのみ説明することに終始しています。霊魂の形態性については全く問題視されていないのです。したがって霊魂が、「霊体」のような形態を持つものであるのか否かは、依然として曖昧なままに残されることになります。

「気の身体」の所在は?

物質次元か、霊的次元か

霊魂観からのアプローチでは、結局「霊体」に結びつく接点は得られないことが明らかになりました。機能から想定された架空の「気の身体」と、不可視ではあっても実際に形態を持つとされる「霊体」を同一次元で比較することは不可能です。

しかし身体観の視点の次元が違うということで、平行線のままでよしとしてしまうならば、スピリチュアル・ヒーリングと中国の伝統的医学を包括する医学理論・医学モデルは永遠にできないことになってしまいます。別のアプローチによって、何らかの接点を見い出すことはできないでしょうか。

そこで考えられるのが、「気の身体」は物質次元か、霊的次元かのどちらに属するかを明らかにするという新たな試みです。それは中国伝統医学における気の通路である「経絡」の所在が、肉体次元(物質次元)にあるものなのか、あるいは肉体以外の次元にあるものなのかを明らかにするということになります。もしそれが明確にされるならば、次元が異なる2つの身体(「気の身体」と「霊体」)の接点が得られるようになるかもしれません。

この問題に重要な手がかりを与える研究が、現代科学の方法を用いて行われています。気の流れを現代科学の手法を用いて測定するという研究が、日本人研究者、本山博によってなされました。本山は自らが開発した経絡-臓器機能測定器(AMI)を用いた実験で、従来経絡と言われてきたものが、真皮結合組織の多水層の中を走っていることを発見しました。その発見の正当性は、フランス、パリ大学の生理学教授Dr. Darrasのアイソトープを使用した実験、またアメリカUCLAの生理学教授Dr.Valevie Huntの高周波を使用した実験によって確認されています。こうした一連の実験によって、2千年以上の間、臨床的体験によってのみとらえられてきた経絡の存在が、肉体の真皮結合組織の内部にあることが判明したのです。さらに本山は、経絡を流れる気の速度を観測し、それが平均20~30cm/秒であることも突き止めています。

本山の実験は、「気」を電気現象として測定するという方法で進められたものです。もし気エネルギーが電気エネルギーに他ならないということになれば、経絡とか気といったものは、すべて肉体次元での現象、物質エネルギーであると単純に結論を出すことができるようになります。しかし、そこに新たな疑問が生じてきます。

経絡は、物質・半物質次元に存在

最近の気の研究によれば、気エネルギーは確かに物質エネルギーには違いないけれども、従来の一般常識からは全く想像がつかないような性質を持っていることが明らかにされています。気エネルギー(気)は、それを捕捉し測定する装置に応じて、さまざまな現象となって現れるからです。電気エネルギーを測定する装置を通した場合は、気は電気として観測され、磁気測定装置では磁気として、赤外線測定装置では遠赤外線として、さらに別の測定装置では粒子として観測されるのです。これは気エネルギーは、単一の物質エネルギーとして限定されるものではなく、さまざまな現象として現れることができる「より根源的な物質エネルギー」ということになります。

現在の気の研究が至った結論は、気とは物質次元に所属するエネルギーであるが、肉体の組織を動かすといっただけの単なる生理的エネルギーではなく、「もっと深層から流れくるエネルギー」、すなわち「根源的な物質次元のエネルギー」ということになります。

では、その気の所在はどこかということになります。先に本山の実験で経絡は肉体の真皮内部に存在することが明らかにされたことを述べましたが、気エネルギーのさまざまな性質を考えると、単純に経絡は肉体次元のみに存在するとは断定できなくなります。肉体ではない半物質次元の場に本来のエネルギーの流れがあって、それが肉体の真皮に反映して1つの流れという現象として現れている可能性も考えられるからです。

もしそれが事実ならば、「経絡」は肉体と霊体のいずれにも所属しないレベルの場にも存在するということになり、スピリチュアル・ヒーリングで言う「幽質結合体(霊体と肉体を連結させる中間体)」や、神智学で言う「エーテル体」という半物質次元の身体上にある可能性も考えられることになります。あるいはバイブレーショナル・メディスンで言うところの「肉体・エーテル体接触面」に存在するということになるかもしれません。これまでつかみどころのなかった「気の身体」の所属領域は、肉体(純粋な物質レベル)と結合体(半物質レベル)にわたる可能性が大きいことになります。これによって「気の身体」が、霊的次元に所属する可能性はほぼ否定されることになります。

現代の科学的な気の研究によって、これまで気一元論のもと、曖昧なまま解釈されてきた「気の身体」に対する理解が一歩進むことになりました。「気の身体」という機能的な身体像と、「霊体」という形態的な身体像との間に、理論的な接点ができたことになります。「気の身体」は物質次元・半物質次元に属するものであり、霊体レベルには属さないということ、すなわち「霊体」とは無関係な存在であることが明らかにされたのです。

インド伝統医学と中国伝統医学の関係

インド伝統医学と中国伝統医学の間には、不思議なほど多くの共通点が見られます。例えばインド伝統医学と中国伝統医学ではともに、宇宙に充満する根源エネルギー(プラーナ、気)の存在を認めているということ、またそうした宇宙の根源エネルギーが人体に取り込まれ、一定のエネルギー通路(ナディ、経絡)を通って全身に運ばれるとしていることなどです。こうした共通概念は偶然、インドと中国という離れた地域に別々に発生したものでしょうか。インドと中国の間には何千年もの昔より交流があり、一方の地域に発生したものが他方に伝播でんぱしたという可能性は考えられないでしょうか。

気と言えば中国というのが現在での常識となっています。事実、鍼灸や気功といった気の医学、気の健康法は、中国独自のものと言えます。しかしこの気は、インドのヨーガで言うプラーナの概念が、紀元前4~2世紀ごろ中国に輸入され、中国風にアレンジされたものとの見方をする研究者もいます。その研究者によれば、インドのヨーガの「三身説(原因身・微細身・粗大身)」が中国に伝播すると、不可視身体である原因身と微細身は捨て去られ、可視身体である粗大身のみが取り入れられたと言うのです。インド伝統医学では3つの身体にそれぞれプラーナというエネルギーが存在するとしていますが、中国ではプラーナは肉体レベルのみに存在するエネルギーということになってしまい、それが「気」の概念として中国で発展していくことになったと言うのです。

インド人は、本来的に魂の救済や人間の最終的運命といった宗教的テーマに強い関心を持ちます。そして目の前の現実を否定し、彼岸ひがんに理想を求めようとします。こうした現実否定的な宗教的傾向の強いインド人にとって、不可視の身体の存在はごく当たり前のものとして受け入れられてきました。

一方、中国では、本来的に現実重視・現実肯定の傾向が強く、それが機能を重視する方向に人々の関心を向かわせたと考えられます。インド人にとっては魂の救いが大切であり、将来の幸せ・将来の運命が重要ですが、中国人にとっては現在の救いが何より大切なのです。死後の幸福より、現世での幸せが重要であり、肉体的な喜びが大切なのです。

宗教的なインドの思想・医学が中国に伝播したとき、中国人は宗教的な部分を捨て去り、自分たちの関心に一致する現世主義的な部分を取り入れたのかもしれません。そうして取り入れられたものに、もともと中国にあった“陰陽説”が加わり理論的に発展させられ、現在の「気の医学」ができ上がっていったのではないかと考えられるのです。